私のパフォーマンス理論 vol.28-トレーニングとの距離について-

25年の競技生活の間に様々な練習法と出会った。取り入れてうまくいったものも、そうではないものもあった。いろいろ試してみた自分の経験から言えることは、全てを解決してくれるような魔法のようなトレーニング法はないということだ。どのトレーニング法も理論も、必ずいいところと悪いところがある。いや違うこれだけは今までにない理論なんだと思っても、歴史を振り返るとだいたい似たものがあったり、または違う世界ですでに使われていることもある。王道はいつも地味だ。

私も一つのトレーニング理論に傾倒したことがある。そのあと調子を崩したが、これは決してそのトレーニング理論自体がよくなかったわけではなく私自身の問題が大きかったと思っている。私自身が全ての自分の考えを明け渡してその理論に傾倒しすぎてしまったが故に、本来の走りを全部書き換えてしまったことで調子を崩した。このように何かに傾倒し、盲信してしまう状態に入った時、選手の心理はどうなるのか。当時考えていたことを整理すると以下のようなものだった。

・私はついに真実を知った。

・私には真実がわかっているが、みんなはわかっていない。

・この練習は正しいが、理解できない人たちは見当違いの批判をするだろう。

というものだった。1、2年経ってある日自分でも驚くほど冷静になって、元の練習に戻った。

その後自分の心理に興味を持っていくつか本を読んだが、カルトにハマる時の心理に似ていた。興味深い点は、対象が選手を依存させている側面もあるが、むしろ私の場合は自分の中に迷いや空白があり、その部分が依存する対象を求めていたように思う。トップの世界に近くなると、適当にしている選手が活躍したり、科学的根拠のある練習をしたはずなのに調子が悪くなったりと、何が正しいことなのかがわからなくなる。そうして答えのない状態に耐えきれなくてなんでもいいからはっきりと言い切ってくれるものに助けを求めてしまいがちになる。

またトレーニング法にも盲信を迫りがちなものがあり、そういったものの見分け方を整理してみると、

・絶対に

・今までにない

・革新的

という単語が入っているものは危険度が高い。人は何かのきっかけで盲信すると、それを強化する情報ばかりを集めるようになり、後戻りしにくくなる。盲信状態に入らないようにするのに有効なのは、教養とそれから友人の多様性だ。知識がなければ頭の中で検討できないし、友人が多様でなければ思考が偏りがちだ。無知は独善である。

一方で、このように何かに盲信することを警戒しすぎると、別の問題を引き起こすこともある。このパターンでよくあるのは、盲信を避け、常に物事を疑い、そうとは言い切れないという立場をとるあまり、信じてやりきるということができなくなってしまうということだ。いわゆる頭でっかちのタイプや、何事も考え込むタイプに多い。

このタイプは研究者としてのトレーニングを積んだ経験のある選手に多かった。私は経験がないので憶測にすぎないが、研究のトレーニングを積んだ人はエビデンスがあるものと、ないもの、自分の仮説と、それから想定される反論をいつも分けて考えている。だから、基本的には言い切ることをしない。ここまではわかっていて、ここからはわからないという謙虚な話し方をする人が多い。

これ自体は競技にも有利に働くが、この客観的な考え方と競技者としての考え方の整理がつけられない場合、競技力向上の妨げになることがある。研究者としての考え方のままだと、そうとは言い切れないと距離を取り評論的になりがちで、いつまでたっても決断して夢中で突っ走ることができなくなる。要は客観的になりすぎていて、夢中になれないし、バカになれず、だから全力が出ない。

競技者とは究極の主体者である。だから実践以外のトレーニングはなく、また疑いを持ちながらよりも信じ込んだ方がトレーニング効果は高い。また競技の世界ではよく理屈はわからないけれど機能するなら、それは機能していると思ってやった方が有利に働く。正しいことを決めてやるよりも、やりながら正しくしていくやり方が競技の現場では往往にして機能する。この辺りが先ほどの盲信とのバランスが難しいところではあるが。

研究者としてのバックグラウンドを持っている選手は、速く走りたいという思いと、自分の理論を証明したい、理解したいという思いの両方を持っていることが多い。特に競技がうまくいかないときはむしろ後者に自分の存在価値を見出してしまい、理論の証明に躍起になることが起きる。誤解のないように言っておくが、研究者になるのであればこれは素晴らしいことだ。あくまで競技者としてトップを目指す上でこの理論の証明に強い執着を燃やすタイプは、その執着心が弊害になる。研究の勝利と、競技においての勝利は勝利条件が違う。競技においてはオリジナルである必要も、理論が解明されている必要もない。自分が信じているものが迷信だったか真実だったのかの証明は未来の研究者に任せればいいだけだ。

研究者と競技者の一番の違いは、科学者は何が科学的に正しいのかを追求しているが、競技者は何が現場で機能するのかを追求しているところだ。研究者タイプから見ると競技者タイプは思い込みが早く決めすぎに見える。競技者から見ると研究者タイプは検討が多くいつまでたっても夢中にならない人に見える。実際の競技の現場はこの間にあって、理想は一人の選手の中に両方の人格がいて、適時それぞれの考え方が出てくるやり方だろう。

私もこれがうまくできなかったので、曜日で何も考えずに走る日と、ずっと考えながら走る日を分けていた。また年に一度10月に全てを整理してトレーニングを組み立て直していた。経験上、一番良くないのは両方が同時に出る場合だ。これはどっちつかずになる。あるときは振り切って信じて突っ走り、あるときふと我に返り研究者のように客観的に分析する。これらが振り子のように機能するとちょうどよかった。もしこの両者を行き来することが難しく、どちらかしかないとしたら、信じて突っ走る性格の選手の方が競技成績が良かったように思う。客観的に分析することはコーチや研究者に外注できるが、信じて突っ走ることは当事者にしかできないからだ。

スポーツの現場では短期では狂気は正しさを凌駕する。しかし狂気の人間は自分の姿が見えていない。どこにいるのかどこに向かっているのかもさほどわかっていない。思い込みが強いタイプの選手は変に客観的になるより、コーチ選びに神経を使い、一度選んだら信じ込んで突っ走るというやり方がいいと思う。なれないものになろうとするより、できる人間に外注した方が効率がいい。

この記事を筆者のサイトで読む

このページをSNSやメールでシェア

関連記事

  1. 私のパフォーマンス理論 vol.19-停滞について-

  2. 私のパフォーマンス理論 vol.15-骨格と動きについて-

  3. 私のパフォーマンス理論 vol.6 -400Hにおけるハードリングについて-

  4. 私のパフォーマンス理論 vol.24-年齢と適応について-

  5. 私のパフォーマンス理論 vol.10-ブランディングについて-

  6. 私のパフォーマンス理論 vol.26-敗北後の整理について-

りくする公式SNS

Facebook

スポンサードサーチ


よく読まれている記事