それなりの競技成績を残したアスリートにとってメディアの付き合いは必ず出てくる。私のようにそれを喜ぶ選手ばかりではなく、嫌がる選手もいるが、避けては通れないし避けるべきではないと私は思っている。
まず、オリンピックの選手であればオリンピックがなくなれば自分の活躍の場がなくなることは理解できると思う。オリンピックというシステムは、世界からトレーニングを積んだアスリートが集まり技を競い合うものだ。それらが価値を持っているのはもちろん選手が懸命に戦う姿にあるが、例え価値があったとしても広がらなければ規模は生まれない。この価値を世界に広げて規模を生み出し、そこから大きなお金が生まれるようにしたのがオリンピックとメディアの関係だ。ロス五輪までは選手は皆一部自費で五輪に行っていた。
源は選手だったとしても、それを世界に広げるにはメディアとのパートナーシップが重要で、だから例えオリンピック選手がいくらメディアと距離を取ろうとしてもオリンピックというシステムがすでにメディアを組み込んだものになっているので逃れようがない。逃れようがないならちゃんと向き合ってよりよくしていったほうがいいではないかというのが私の考えだ。もちろん私のような出たがりもいればそうではない選手もいて、多い少ないはあると思うが、完全にメディアとの付き合いを避けることはできないしあまり得策ではないように思う。
では、実際にメディアと向き合う際に何を意識したらいいのか。まず忘れてはならないのは選手は「メディア」ではなく、メディアで働いている一人の人間と向き合っているということだ。なんでもそうだが、アスリートやメディアなどの固有名詞で人を呼ぶ時、ついその中にいる一人一人の人間の姿を忘れてしまうことがある。その状態に入ると、人はステレオタイプに相手を判断するようになる。その見方は偏見を生みやすいし、何より目の前の人間に興味を持てなくなりやすい。自分に興味を持たない人間に対し、良い感情を抱く人間はいない。メディアという職業をまず取っ払って、目の前の人間に自分の考えをなるべく正確に伝えようと努力することが、当たり前すぎるが結局一番重要なことだと思っている。。
私はメディアに対することだけではなく、人に対しては全て鏡だと考えるようにしている。人間は反応に弱い。例えば自分がある過激な発言をする。そうすると世間なりメディアなりになんらかの反応がある。人間は反応があるものに対し興奮して行動を繰り返すようになる。いじめも、ギャンブルも全てこの反応依存が影響すると私は考えている。これを一旦学習すると、人間はつい反応を欲しがって徐々に反応にコントロールされるようになる。次第に反応に対して適応し、行動や言動が偏り、キャラが出来上がっていく。ある俳優さんと話をした時、いいことでも悪いことでもなんでもいいもう一度だけライトを浴びたいと話していた。人間は反応に対して依存する。
本当は自分がとった行動を鏡が返しただけれなのだけれど、人はそのうちに鏡のなかで起きている出来事に夢中になり、一喜一憂するようになる。そして反応は自分から始まっていることに気がつかなくなっていく。日常生活でもこれは起こり得るが、メディアは拡散装置なので、これが促されやすい。私もこういった反応に左右される人間だったから、常にメディアに対峙する時、現在であればソーシャルメディアも含むと思うが、自分自身の0地点を意識するようにしていた。そのために一番いいのは集団と一定の距離をとること、そして一人で自問自答する時間を作ることだと思っている。イメージだが、花火大会で花火が上がっていてそれを見ている人を遠くの神社の境内から眺めているような感じで、帰り道で社会と距離をとることを意識している。
これらを踏まえた上で、もう少しテクニカルな話をしたい。メディアは種類によってこだわりが違う。テレビは絵にこだわる。絵とは見た目の映像のことだ。それは長い経験からテレビの視聴者は絵によって反応するということがわかっているからだと思う。だから、出る側も絵で判断されている。振り返ってリオ五輪、ロンドン五輪、北京五輪のどの場面を思い出すだろうか。テレビで見ていた人は、ほとんどが絵が浮かぶのではないだろうか。もしかすると音声や、選手のコメントも全部記憶から消えているかもしれない。裏を返せば選手は自分が残すものはある一瞬の姿なのだということを認識しておいたほうがいい。一番いい絵は人間が我を忘れて夢中になっている姿だと思う。メディアの側に少し足を踏み込んでいるみとしては、やはり人間の本性が見たい。スポーツはそれが頻繁に現れるので強いコンテンツになっている。絵は作れないと思ったほうがいいが、もしも何かを意識するなら自分らしさとは何かを考えておいたほうがいい。絵は自分らしくない振る舞いも晒してしまうからだ。
同じように、活字のメディアは字にこだわる。例えばオリンピックパラリンピックだけで12文字も使ってしまう。五輪にすれば短いが、五輪という言葉に人はパラリンピックが含まれると認識するだろうかということに、文字制限のある新聞はこだわらざるを得ない。また見出しも短くわかりやすくしなければならない。このような特性があるので、活字のメディアの記者と対峙する時はなるべく事実関係をクリアにして、わかりやすく話し、最後に見出しになるような短文のまとめを話すようにしていた。丁寧に説明するところは同じだが、新聞とテレビでは要点が言葉なのか絵なのかの違いが大きい。
自分がいい成績を残した時、早く反応があったものに振り回されてはならない。メディアは旬なものを旬な時に伝えることが重要なので、いい時にだけきて、と穿って見る必要はない。一つ一つ丁寧に対応すればいいだけだ。ただ、往往にして本当のファンは反応が薄い。この人たちは今だけではなく日常的に気にかけてくれて、応援してくれている。そしてその人たちは長く見ている分、奥の方まで理解して応援している。旬になった時、嬉しいのは人間の性なのでしょうがないが、反応の薄い、だけれどもおそらくこれからもずっと応援してくれるであろう人を忘れないようにしたほうがいい。長く見ている人にとっては旬に踊らされている姿もメディアを通じてよく見える。
私が運が良かったのはそれほどメジャーではないハードルという競技だったから、いくら言いたいことがあってもそれを伝えてくれるメディアがなかったことだ。その時のフラストレーションがあるから、今になっても目の前の人が自分の話を聞いてくれるという感動が薄れにくくなっている。また、取材がなかった頃、ありとあらゆるメディアの取材を受けた。少女漫画の雑誌もあれば、宗教に関するもの、なんでもあった。それを繰り返すうちハードルのことを説明するにも、相手の人生経験を想像しながら話さないと伝わらないということを理解できるようになった。振り向いてもらえなかった期間が長いので、メディアに対する愛着も深いのかもしれない。
最後に私が好きな言葉を。どこかの選手の言葉らしいが、調べても出てこなかったので出典不明で紹介したい。
「アスリートには勝ちたい選手と、何かを伝えるために勝ちたい選手がいる。私は後者でありたい」
1978年広島県生まれ。
スプリント種目の世界大会で日本人として初のメダル獲得者。男子400メートルハードルの日本記録保持者(2018年7月現在)。
現在は、Sports×Technologyに関するプロジェクトを行う株式会社Deportare Partnersの代表を務める。
新豊洲Brilliaランニングスタジアム館長。主な著作に『走る哲学』、『諦める力』など。