競技の始まりは大抵憧れから入る。私の場合はカールルイスだった。あんな選手になりたいと願いながら、懸命に練習した。ロールモデルを持つことの効果は大きく、基本的にはプラスに働く。やる気が出て頑張れる。だが、頂点を目指す中で一定のレベルを越えた先では、ロールモデルの設定の仕方次第で伸びどまる可能性がある。
普通人間は現在の自分との間にギャップがある存在をロールモデルに選ぶ。今の自分でも十分に到達可能であったり、すでに自分も実現できているような技能を持った相手はロールモデルにはなり得ない。自分ではできないことや、手を伸ばしても今は届かない場所に憧れの存在はある。人間は自分の苦手分野を得意としている人に憧れるようなところがあり、そういった自分とは異質の人間をロールモデルに選びがちだ。プレゼンが苦手な人はプレゼンがうまい人をロールモデルにしやすい。ロールモデルはしばしばコンプレックスの投影先になる。
自分とは違うタイプを憧れの存在に選びそこに向かっていくとどうなるのか。最初は自分の苦手なことに取り組むいいドライブになるのでプラスが大きい。ところが、少しずつ技能が高まり熟達してくると、どうしても最後の最後はしっくりこないということが起こる。なぜならば、頂点に近くなると自分の特徴を磨きに磨いてきた選手同士がしのぎを削っているので、自分の特徴を活かしていない戦い方では通用しない。もし通用していればただレベルが低いか、あなたのレベルが極端に高いかどちらかだろう。自分の特徴を活かしに活かしても通用するかどうかという世界では、自分の強みと特徴、バックグラウンドを直視せざるを得なくなる。
私たちの時代は陸上はアメリカが圧倒的に強かった。彼らのようになりたいと思ってチームにも入り、彼らの真似をした。考え方も、動き方も、話し方すら真似をしようとした。しかし表面は真似できても、どうやってもそうなれなかった。簡単な例でいくと歩行は文化圏で違いがあるが、これは幼少期の環境に依存し、一度習得すると生涯にわたって変わることはほぼない。日本人は左右ブレが少なく上下動が少なく、歩幅は狭い。アメリカ人は左右ブレが大きく上下動も大きく、歩幅が大きい。これは人種よりも文化の影響が大きいようだ。二足歩行の延長線上に走行があるから、どうしてもこの歩行様式に引きずられる。私も体を上下に揺さぶったこともあるし、左右に振ったこともある。けれども、一緒に走りながら決定的に何か身体内で起きているリズムが違うと感じた。分かりやすく言えば、チームメイトは胴体の中心から煽るような力が出るように見えたのだが、私はどうやってもそれが出ないで水平移動にしかならなかった。
私が自分なりに行き着いたことは、真似は真似にしかなれないということだ。ただ、これを受け入れる時は心理的にそれなりに抵抗があった。変えられないものは変えられないし、なれないものはなれないと割り切ることは、逃げであり努力の否定であり、何よりも敗者の考えだと思っていた。しかし、実際にグラウンドで違う文化圏の人間と、また飛び抜けた才能の人間と対峙し続けると、どうしても変えられない特徴を直視せざるを得なくなる。自分とはどのような特徴を持った存在か。この特徴を活かした先には何があるのか。そういう考え方をするようになった。
ただ、これはだからといって海外の情報を遮断するとか、自分以外の考えを聞かないということではない。自分の変えられないものを理解し、変えられるところは変え、何事も自分らしく解釈し直して取り入れるという考えに変わったということだ。こうであったらかっこいいなという自分から距離を置き、本来の特徴を活かすように考えを変えた。大きな力を出す方向よりも水平移動を心がけて、効率化を目指した。憧れではなく、自分の延長線上にある選手をベンチマークにした。
もう一つロールモデルで陥りがちなのは、誰かが飛び抜けて活躍している時にそれが輝いて見えてつい引き寄せられてしまうことだ。私は若い時はこの傾向がとても強く、その時の旬の選手につられて動きを真似するということを繰り返し、何度も失敗した。スポーツの頂点に近い世界では、実際に科学的根拠のある情報を探そうとしても、N数が少なすぎて参考にならない。例えば9秒台で走った日本人は二人しかいない。しかも二人とも統計的には例外と言ってもよく、実際に彼らがやっていることの何が速さに影響しているのかほとんどわからない。観察して洞察するしか理解する方法がない。
トップ選手というのは強い輝きを放つ。私のように自分らしさがない選手はそれに引き寄せられてしまう。距離を置けるうちはいいが、そのうちに彼らがやっていることは全部いいことだと思うようになり、無条件で取り入れるようになってしまう。もちろん私もいろいろと説明をしながら取り入れていたが、つまるところは今あの人が一番速いんだからきっと正しいことをしているはずだ。だから自分もそれをやる。程度のロジックしかなかった。人はそれぞれ違い、ある人にはよくてもある人には機能しないという個別性の原則がわかっていてもできなかった。
この年齢になると少し冷めて見られるようになる。選手にも栄枯盛衰があり、いくら輝いていてもいつかは輝きがなくなる。10年もしたら今のトップ選手たちは次世代の選手に倒され、その選手たちも10年経てば倒される。そうして負け始めている選手を見ると昔の強さの源泉が今度は、悪いくせに見えるから不思議なものだ。人間の目は、結果でまずいいか悪いかを決め、そのあと原因を探す癖がある。だから輝いている選手を見る時は勤めて冷静にならなければならない。無意識に何がいいところなんだろうと探している可能性がある。実際にはトップ選手にも悪いところはある。同じように調子が悪い状況の選手や自分に対し、無意識に何が問題なんだろうと人は探しがちだ。調子が悪くてもいい点はあるはずなのに。
結局のところは、よいトレーニングは普遍性と個別性のバランスにある。普遍性は誰にも通用するエビデンスのあるトレーニングで、個別性は自分の特徴を活かしたトレーニングのことだ。個別性を活かしたトレーニングとはつまり変えられない自分の特徴はどうすれば活きるのかを考えるということだ。重要な点は変えられるものは変え、変えられないものを変えずに活かすということだ。例えば性格などは変えられると思われがちだが、根本的には変えられない。ただ、表現系を変えることは可能だと思う。
もし自分の特徴を知りたければシンプルな方法がある。それは友人10人に自分とはどんな特徴を持った存在かを聞くことだ。何点か自分の認識とずれていることが出てくる。その場合友人の意見を参考にしたほうがいい。人間は自分で認識する自分と、他者が認識する自分があり、後者の視点は自分にとっては意識されない。そして特に若い時は後者の方が的を得ていることが多い。
1978年広島県生まれ。
スプリント種目の世界大会で日本人として初のメダル獲得者。男子400メートルハードルの日本記録保持者(2018年7月現在)。
現在は、Sports×Technologyに関するプロジェクトを行う株式会社Deportare Partnersの代表を務める。
新豊洲Brilliaランニングスタジアム館長。主な著作に『走る哲学』、『諦める力』など。