長く競技をやっていれば必ずピンチの瞬間がやってくる。ピンチの時にどう振る舞うかが競技人生の成功に大きく影響する。興味深いのはこのピンチの瞬間にこれまでの競技人生をどう生きてきたかが端的に現れたり、また競技人生での1番の成長が訪れたりすることだ。
私の競技人生で一番ピンチだったのは、2008年の6月の日本選手権の時だった。この日本選手権で1位か2位になれなければ、五輪は絶望的となる状況で、その年のシーズン最初から私は下腿部の肉離れで試合に出れない状態が続いていた。そしてようやく治ってきてなんとか本番に間に合わせようという矢先に、反対側の下腿部を肉離れした。もう試合は1ヶ月前に迫っていた。陸上競技で1ヶ月前まで試合で練習できないというのは結構厳しい状況で、私自身も2度目に怪我をした瞬間はもうだめかもしれないと思った。
あの時の感情を羅列してみると以下のようなものだったと思う。最後の五輪だと決めていたのに、どうしてこの瞬間にこんなことが起こるのか。なんで怪我をしたのは自分で、他の人ではないんだ。あれだけ気をつけて繊細にトレーニングを積んできたのに。これで結局本番走れなかったらどうなるんだろう。その後の人生はずっと後悔するんだろうか。応援してくれている人もがっかりするだろう。ライバルたちは今どうしているのだろう。快調に練習できてるんだろうか。できればみんな怪我をしてくれないか。自分は名前もあるし世論に訴えかけて、選考会をずらしてもらうということができたりしないか。またはものすごく低調なレースになってなんとかなるということはないか。もし負けるとしたらみんななんて思うんだろう。なんだあいつは結局最後は敗者だったなと言われるのだろうか。自分のメンツが保たれるいい負け方はないか。同情を買うような負け方をすればまだ社会の見方は和らぐのではないか。頭の中でずっとこのようなことが回っていた。
面白いのは、こういう時に選手は時々楽観的になることだ。例えば根拠なく、三日間で痛みがなくなるのではないかと考えてハイになったり、アクセルを踏んでいる時に痛みがなかったのでこれは痛くないんじゃないかと思ったり。希望を持つというよりも自分を慰めるように勝手にいろんなことを思いついては、違ってガックリくるということを繰り返していた。
ちょうど試合の二週間ほど前だったと思う。赤羽のナショナルトレーニングセンターで、一人で坂道走路を歩いて登っては階段で降りてというのを繰り返していた時、急に鳥の声とか、車の音とかがバーチャルに感じられて、全部自分とは無関係なもののような気分になった。自分は自分とは関係がないことを勝手に思いついては憂いているのではないか。後から考えればものすごく馬鹿らしいことをあれこれ悩んでいるのではないか。
結局のところ、実際に今から自分にできることは何か。陸上競技は準備の競技だ。グラウンドに来て練習し、ご飯を食べてよく寝ること。これ以外にない。だから一生懸命本番に向けて準備をすればいい。実際の試合がどうなるのか。ライバルがどの程度走るのか。また当日痛みがあるかどうか。ましてやそれがどのように世の中に受け止められるかは私にはコントロールできない。コントロールできないことを考えてもしょうがないし、そもそも関係がない。関係がないことを考えることは勝負に関しては無駄なことだ。このような見方の転換だったと思う。私は急に気持ちが晴れて、特段ハイになったわけではないが、目の前のことに没頭できるようになった。やれることを準備して、あとは本番を迎えよう。ダメだったらまたそこで自分にできることをやるだけだ。結局この時には本番はうまくいって五輪の出場権を獲得した。
私のこの体験はスポーツ心理学ではよく知られていて、コントロールできないものを意識するのをやめ、コントロールできることに意識を向けよという言葉で教わる。コントロールできないものの最たるものは他人と過去であり、コントロールできるものの最たるものは自分であると。だが、知識で知っていた言葉と実感とはずいぶん違っていた。体験した人にはよくわかる。一方でおそらく体験していなければほぼなんのことかわからない。
大事な点は、楽観的になろうとすることでも、悲観することでもなく、目の前にある自分にできる課題解決に集中することで、何を無視するかを決めることだ。自分の範囲を超えたものを恨んだり、憂いても改善は見込めない。
もちろんこれはとても抵抗感が強い。なにしろ自分のせいではない理由で自分がピンチに追い込まれることも多々ある。また本質的にはもっと大きなところに問題があることも多い。例えば指導者や、所属している企業の方針、国際連盟の方針、ドーピングを使用している選手など。それを関係ないと割り切れという話でもある。人間どうしてもその対象の責任だと考えたいし(実際にその場合もある)、恨みたいし、なんなら復讐したい。しかし、それで改善できるならいいけれども、改善できない場合は努力は無駄になる。
勝利に結びつくのは行動しかなく、どう考えるかよりもどのように行動するかだけが競技者の成功を決めている。競技人生で最も足りないリソースは時間だ。その貴重な時間を考えてもどうしようもないことに費やすことは避けなければなければならない。最終的に競技人生を良い方向に勧めてくれるのは、ひたすらに自分のできることにフォーカスして、それを淡々とやり遂げることだ。他人も過去も未来も何が起きるかわからない。わからないことには起きてから対処すればいい
コントロールできるものとそうではないものを分けられなければ、競技者は無力感を抱く。コントロールできないものは、当たり前だが自分ではコントロールできない。にも関わらずそれをなんとかできると信じ、なんとかしようとすれば、常に思い通りにならない。結果、何をやってもだめなんだと無力感を抱き、敗北者のマインドが植えつけられるようになる。自信がある人間は、いきなり全てができるようになったのではなく、まるで自分を説得するように自分のコントロールできる範囲でやってみて、そして実際に変化が起こるのを見て自分自身を説得することに成功し、また次の課題に挑戦する。この繰り返しで自信を植え付ける。スポーツにおいてのやればできるは正しい。ただし、正確には自分のやればできる範囲を明確にわかっている人にとっては、だ。この線引きができない人は、やればできると思って雨をやませようとするが、雨はやまずそれに対し自信を失ったり腹を立てることをやってしまう。
この考え方にも弊害がある。いきすぎると社会と自分を分断し、社会を包括するような大きな課題に無関心になり、結局社会全体の問題を誰も解決しないことにもなりかねない。また、他人からは淡白な人間だと思われることもある。全て実践に落とし込もうとするからだ。人はただコミュニケーションを取るだけで癒されるから、問題を解決しないでも、話せば解決されることもあるし、何もかも実践に直線的に向かう人間は息苦しいこともある。特に精神的に厳しい状況には。選手を引退してから、社会課題にちゃんと興味を持ってコミットし、性急に成果を求めて行動するのではなくゆっくりと人の話を聞くことを意識するようになった。スポーツの世界はゼロサムゲームであまりにも勝ち負けがはっきりしすぎていて、そこで培われたメンタリティはそのままにしておくと摩擦を起こしすぎるところがある。
私の競技人生で1番の学びは何かと聞かれるとこの体験をあげると思う。社会に対し苛立ち、精神的に追い込まれると投げ出したくなる人間だったが、この体験でずいぶん大人になれたし、精神的に安定するようになった。今もまさに学びつつあるが、人生はシンプルであると考えるようになった。今この瞬間に意識を起き続ければ、人生は常に拓けていくと思う。思うような人生にはならないかもしれないが、それ自体が実は自分には関係がない。人生は今にあり過去にも未来にもない。
私がコントロールできるものとそうではないものの分類ができていない時は何にでも期待し失望していた。この分類ができれば期待することはなくなり、残るのはひたすらに自分は今からどうすればいいのかという実践のみになる。
1978年広島県生まれ。
スプリント種目の世界大会で日本人として初のメダル獲得者。男子400メートルハードルの日本記録保持者(2018年7月現在)。
現在は、Sports×Technologyに関するプロジェクトを行う株式会社Deportare Partnersの代表を務める。
新豊洲Brilliaランニングスタジアム館長。主な著作に『走る哲学』、『諦める力』など。