指導者については影響も大きいので何度か取り上げたい。今回は指導者のタイプの分類について。自身は18歳で自分で自分をコーチングするというやり方になったので、あまり指導者と組んだ経験は多くない。こういう経験から当然自由度を大きくしている指導者を好ましいと思う傾向にあることを最初に白状しておく。
また前提として指導者から何を学ぶかは選手の姿勢次第というところもある。よく自分を幸せにしてくれるものを一生懸命探していて、自分の側に課題があることには全く目もくれない人がいるがそれと似ている。あくまで自分が主体で自分の中になりたい選手像がありそれを実現する一つの手段が指導者になる。指導者をつけなくても競技はできる。
わかりやすいところで言えば、指導者は大きく先生タイプとコーチタイプの二つに分けられる。先生タイプはスポーツを通じての人間育成を目的としている。良い点は、人間育成が目的なので取りこぼすことがなく満遍なく人を育てる。またうまくいけば生涯にわたって選手と信頼関係を築く。一方で人間的成長が競技力向上よりも上位にくるので、練習の目的が曖昧になり競技力向上に甘くなる傾向もある。楽だが効果がある練習より、苦しくて仲間と一体感が醸成される練習を選びがちになり、それが練習効果の非効率化を招く場合がある。
コーチタイプの特徴は、競技力向上を目的としている。人間育成が目的ではないので選手とも適度な距離を取り、プロ的に振る舞う。自主性が高く競技志向が強い選手には居心地がよくかつ目的が結果を出すこととシンプルなのでロジカルに話ができる。ただコーチと二人三脚を求めるようなタイプは冷たく感じるかもしれない。勝利至上主義に走りがちでもあって、特に若年層向き、かつ熱力が高いコーチだと早くに頂点に達し燃え尽きる選手を作ってしまうこともある。
中学高校程度であれば先生タイプが、大学生以上であればコーチタイプが向いているというのは大まかな傾向としてはある。日本では、どちらかというと先生タイプが多い。私はコーチタイプを好んでいた。
それ以外では以下のようなタイプがあるので、思いつくままに羅列してみる。
自由度はどの程度あるのか-指導者は枠を設けその枠の中で選手は自由に選択する。もちろん間には交渉可能な範囲がある。一方で全てが交渉可能であればその指導者の信念が疑わしくなる。一般的には自由を与えたほうがいいと言われるが、人間の創造性は一定の制限があった方が働くので、この加減がちょうどよくなければならない。案外制限があったほうが考えることが少なくて楽だという選手も多い。自由度が大きい指導者に、自由度が小さい方が向いている選手がついた場合は、何も教えてくれなかったという不満を抱きがちだし、自由度が小さい指導者に、大きい方が向いている選手がついた場合には、がんじがらめだったという不満を抱きがちだ。
執着心が強いかまたは弱いか-執着心が強ければ、選手と一心同体になりたがるのでうまくはまると最高のパートナーシップが出来上がる。面倒見もいいので生涯にわたって関係を築くこともできる。一方で、選手の去り際に執着したり、他の指導者に指導されることを嫌がる場合が出てくる。反対に執着心が弱ければ、特別扱いすることもなく、飄々と新しい選手を指導したりするので、依存心が強い選手には寂しく感じるかもしれない。ただ私のような自由を求める人間にとってはとても居心地がいい。
向上心が強いか弱いか-どんな立派な指導者も自分の功名心と選手の将来を願う想いは混在している。向上心が強ければ、一発当ててやろうと考えているの勝ちたい選手には合う。一方で野心が強すぎてコンプレックスが強いタイプは、選手を手段として捉えがちでもあるので、選手を使い捨てにする場合もあるので注意が必要だ。弱ければ、一般的には居心地がいいが、一方で向上心が強い人間にとってはただの仲良しクラブに感じる。野心がなければ現状維持を好むので成長が鈍化しやすい。
どの程度厳密か-どの程度厳密に行いたいかというのも大事な指標になる。厳密に行う人間は決められたルールを遵守することを大事にするので規律が生まれ、選手にもそれが植えつけられる。きっちりしたい人間には合うが、一方で厳密にする基準が選手と指導者がずれていることがありこの場合はほとんどが関係が破綻している。厳密さがなければ私のようになんでも良いと自由度を大きくする。選手は自由にはなるが規律がなく、努力しなくても誰も拾い上げてくれなくなりがちだ。この執着心と厳密さが強くなるとカルト的な空気をチームが帯びることがある。選手がだいたい同じ顔をして同じ格好をして同じ動作をしているので外から見るとすぐわかる。
経験則重視か科学的なデータを重視するのか-これも科学的根拠に基づく指導がいいと言われがちだが、競技の最前線ではN数が足りず、科学的にはなんとも言えない世界だらけだ。だから経験則重視の指導者の方が向いていることがある。ただこのタイプはなんでも信じてしまうので、かなりおかしな理論に傾倒してそれを正しいと思い込んでしまい選手にも押し付けることがある。魔法のような理論を信じている人は要注意だ。一方で科学的根拠に重きを置きすぎると、まだよくわからない独創的なアイデアをとりあえず試してみるということをやらない傾向にある。指導の際に数字がどの程度出てくるかを観察しているとタイプの違いがわかりやすい。
良い指導者は一様に変化するし、選手も変化するということを信じている。学ぶということは自分も変わるということで、毎年少しずつ打ち出すメッセージが違ったりすればその指導者は変化していることになる。学ぶ指導者は必ず良い指導者になっているように思う。また、学ぶ指導者は質問が多く、選手に質問されることや疑問をぶつけられることを喜ぶ。これはある程度普遍的な良い指導者の資質と言っていいと思う。
さらに普遍性と個別化のバランスがいい。指導はどうあるべきかという基本的な信念を持ちながら、一方で個別に対応することとのバランスを取っている。片方だけでは信念がなくなるか、または融通が効かなくなる。選手をよく見ているし、選手に対してのリスペクトもある。人に上下をつけたがる指導者は、長期的に見ていい指導者にはならないだろう。
指導者には本当にたくさんのタイプがあり、誰にとってもいい指導者というのはおらず、自分に合う指導者がいい指導者だ。だから日本のような流動性の低い状況ではマッチングミスが起きていて、私はシステムとしてもっと流動性を高めるべきだと思っている。
繰り返しになるが指導者も一つの手段である。あくまで主体は選手にあり、選手が指導者を選択する側なのだということを忘れないようにしてほしい。指導者の力も限定的でそこに期待をしすぎてはならない。問題を解決するのも、ヴィジョンを描くのも自分であり、自分の競技人生の手綱を手放した瞬間に誰の競技人生かわからなくなる。
1978年広島県生まれ。
スプリント種目の世界大会で日本人として初のメダル獲得者。男子400メートルハードルの日本記録保持者(2018年7月現在)。
現在は、Sports×Technologyに関するプロジェクトを行う株式会社Deportare Partnersの代表を務める。
新豊洲Brilliaランニングスタジアム館長。主な著作に『走る哲学』、『諦める力』など。