なぜ私は金・銀メダルが取れなかったのか。そもそも銅メダルが能力の限界だったということ、また”もしも”を考えてもしょうがないということはわかった上で、もしもう一度競技人生をやり直すならこれを変えるということを自分なりに分析してみたい。
1、幼少期の水泳
私は幼少期に水泳をやっていて、キックの影響か足首関節が柔らかく水泳選手ほどではないが足首関節が底屈する。先天性かもしれないと疑い、姉の走りと妹の走りを観察したことがあるがそれほどではなかったので、後天的なもので水泳の影響ではないかと疑っている。走りの動作において、足首関節が底屈することは望ましくない。高い疾走速度では足首の関節角度はほぼ一定の状態が望ましいとされ、むしろ足首関節の可動域が狭い方がよい。ところが私は足首関節の可動域がかなり広く、接地後半局面で足首が底屈し、少し足が後ろに流れてしまい最高速度を上げることを阻害していると感じていた。足首が硬ければ多少最高速度が高かったと思う。
2、中学時代の地面のキック
私達の時代は、マック式トレーニングが流行った時代で、私も中学時代は本を読み漁り、マック式トレーニングを行った。あまり理解度が高くなかったこともあり、地面に接地する瞬間の足首のキックを妙に意識してしまいその癖がついた。また、そのキックを強くするためにカーフレイズなどのトレーニングも行った。そのせいか中学三年間で、足首を接地した瞬間と、離地局面でやや動かしてしまう癖が残った。これも1と同じように最高速度に制限をかけたと感じている。また人生終盤のアキレス腱痛もこの影響ではないかと考えている。
3、世界に出るのが遅れた
私が初めて自分の意思で一人で世界に出たのは22歳の時だったが、世界に出るのが遅すぎたと感じている。もっと早く(15-18歳)世界を経験し、当たり前の基準を上げておくべきだった。日本の陸上界はおそらく世界一感覚を重視するが、逆に言えば本質の部分に徹底的にフォーカスすることが苦手だ。世界に出て、枝葉は適当でいいと感じたと当時に、最も重要な股関節進展や、加速はもっとレベルを上げないといけないと感じた。競技人生の前半は日本の中だったので、それほど本質にフォーカスしなくても活躍できてしまったが故に、遠回りをしたと感じている。
4、走り込みをした。特にミドルスピード。
私たちの時代は、走り込みが必ず必要だと考えていた世代で、特に冬になると走り込みを多用した。これをやりすぎたことで一発で強い力を出し切ることができなくなり、95%程度の力の出し方に適応してしまったと感じている。特に、200-400m程度の距離を全力の80%程度で走る練習(私であれば50-54sec)は、弊害が大きかった。100%に近い出力で60m以下の距離か、またはもっとゆったりしたスピードで長い距離を走るか、200-400mで走り込むならもっとスピードレベルを上げてレストを短くし本数を減らし、セット数を減らすべきだった。またアスファルトの練習を避ければもう少しだけ現役時代が長かったのではないかと思っている。
5、コーチをつけなかった。ただメンター的な役割で。
コーチというよりも、経験豊か(競技以外も含めて)で、客観的な視点でアドバイスをくれる人間と組めればよかったと思う。いわゆる指導をしてくれるようなコーチではなく、もっと人生という長期の視点でフィードバックをくれたり、また質問をしてくれる人間がいればよかった。自分で自分をコーチングする上で二つかけていたものは、客観的な視点と長期的な視点だ。客観的な視点が欠けることで思い込みからしなくてもいい失敗をしてしまったことがある。また、現役の最中に社会の中における陸上競技の位置付けがよくわからなくなり、集中できなかったこともあった。あの時の2,3年は非常に大きな学びにはなったが、もしあの時期がなければ競技成績という点ではもう少し高いところに行っていた可能性もある。
もちろん、これらがなかったとした場合また別問題が起きている可能性があるので、思考実験のようなものだと思ってもらいたい。また、ここでの話はあくまで金メダルを取るという目的で話していて、人生において有益だったかどうかでは話をしていない。特にコーチをつけなかった経験は私の人生には大きくプラスではあったと思う。総じていうなら私の競技人生は、自分一人による試行錯誤の繰り返しだったが故に、競技を超えた普遍的な学びがあったと思っているが、もしこれを競技だけにある程度閉じて、且つ競技人生前半の経験が競技人生後半にどう影響するかの関係を理解した上であればもう少し高いレベルにはいけただろうと思う。
他人の失敗談ほど学びになるものはない。次世代の選手になんらかの参考になれば幸いだ。
1978年広島県生まれ。
スプリント種目の世界大会で日本人として初のメダル獲得者。男子400メートルハードルの日本記録保持者(2018年7月現在)。
現在は、Sports×Technologyに関するプロジェクトを行う株式会社Deportare Partnersの代表を務める。
新豊洲Brilliaランニングスタジアム館長。主な著作に『走る哲学』、『諦める力』など。