勝敗は最後までわからないと言われるが、実際には誰が勝ちそうかは試合が進めば進むほど予想がつく。特に陸上競技は熟達してくると、練習のタイムで調子がわかるようになるから、試合前に試合の結果が6,7割わかるようになる。そうなると試合前からある程度勝利を予想して挑む試合も出てくる。またレース中、試技中でも、トップを走ったり、最も良い記録をマークするなど、客観的に見ても勝利が手に入りそうな状況が出てくる。
この勝てそうな状況をどういった心理状態で望むかはとても重要だ。実際にこの瞬間に勝利が手からこぼれ落ちる選手もいる。勝ちたいという状況よりも、勝てそうだという状況の方が自分の心を扱うという点では難易度が高い。特に勝利を目前とした状況でそれを逃すという経験をすると、その記憶が原因となり毎回勝利の直前でどうせまた自分はこれを取り逃がすんじゃないかと自分で自分を疑うようになる。次第に自分の心が、勝てそうな状況になればなるほど怖くなるという反応をし始める。
例えば、五輪の選考試合がある。勝てばもうけものの挑戦者側は前半から思い切り狙いに行くことが簡単にできる。ところが代表入りがほぼ確実視されている選手であれば、変に前半を飛ばして崩れてしまうといけないので、安全に前半は走りたいという気持ちが湧き出てくる。そんな守りの気持ちではいけない、思いっきりやるぞと自分に言い聞かせるが、心の奥底ではせっかく手に入りそうな勝利なんだから、確実に手に入れたいという気持ちが残る。この守りの心が、人の動きを萎縮させ固めてしまう。こうして番狂わせが起きる。
人は誰かを追いかけている間はシンプルでいられる。目の前に人が走っていればその人を追い抜こうというわかりやすい目標がある。ところが、自分が先頭に出た途端わかりやすい目標はなくなる。陸上であればタイムがあるが、しかしこれは一部の長距離を除き、レース中に具体的にそれを目指して頑張ることはできない。勝つことを目標としていた場合は、自分が勝つ側に立った途端目指す対象がなくなる。矛盾するようだが、勝利以上の目標を持つ人間は勝利への執着が小さいので、勝利の前で混乱することが少ない。勝利以上の理由が必要とされる所以でもある。
人間は不思議と手に入れることにはリスクを取れるが、頭の中だけだったとしても、手に入っているものを守る際にはリスクが取りにくい。勝ちを意識した途端、まだ手に入っていないにも関わらず人はそれを守ろうとする。守りの心になると、人の動きは縮こまり確実にこなそうとして、急に勢いがなくなる。守りの心の時、少しでも相手に押され始めると実際にはまだ差があったとしても、人の心は急激に揺らぎ始め、迷いが生じる。迷いは躊躇を生み、躊躇が命取りになる。躊躇とは実行に対するためらいであり、目標に対してのゆらぎでもある。躊躇する時、選手のパフォーマンスはかなり下がる。
一度守りの心理に入った後はかなりの損失がないと吹っ切れないが、スポーツにおいて大きな損失が出たということはほぼ勝利は不可能な位置まで下がったことを意味する。
あまり熟達者にはないことだが、慢心という落とし穴もある。もう勝てそうだと安心して集中を切らしたり努力を怠ってしまうことだ。多くの人間は努力したいのではなく、何かを手に入れるために努力したい。そうなると何かが手に入りそうになった状況では、努力は余計なものに感じられる。タイムを一切気にせず、勝利を目的としているマラソンランナーがぶっちぎりの先頭でスタジアムに帰ってきて、ラストスパートをすると余計な努力に見える。しかし実際には試合が終わるまでは相手は生きていて常に勝利を狙っている。
さて勝利を目前とした選手にとって一番いいのは、勝ちそうかどうかに自分で気づかないことだが、それはなかなか難しい。もし自分がもう少しで勝ちそうだと気付いた時には、意識的に目の前で起きている出来事に集中し淡々とプレイを続けた方がいい。この淡々と行うということがとても重要で、リズムも心もとにかく平常通り行うことに尽きる。淡々と行うために大事なことは、未来について期待を抱かず、他人に対して願望しないことだ。ただ今目の前で起きていること、これから相手がやってきそうなことだけに集中してそれに対し淡々と対処する。一番良くないのは早く試合が終わって欲しいと願うことだ。この弱さが相手に突かれる。試合は終わるものであって終わらせるものではない。
私が選手時代プレッシャーがかかる試合は、勝てるかどうか微妙な試合よりも、ほぼ勝てるだろうと言われていた試合だった。また試合前に声をかけられて一番苦しかったのは、今日は勝てるでしょという言葉だった。私は勝てそうな状況の時は、意識的に視界を切っていた。比喩的に目の前に集中するのではなく、フードをかぶるなどして、本当に自分が見ているものを目の前だけに絞ってしまっていた。こうすると、外部からの情報も入らず、なんとなく集中できている気がした。
勝利直前にどのような心理状態でいられるかというのは選手の実力に大きく影響する。勝利の直前は、自分の心の弱さが現れやすい。
1978年広島県生まれ。
スプリント種目の世界大会で日本人として初のメダル獲得者。男子400メートルハードルの日本記録保持者(2018年7月現在)。
現在は、Sports×Technologyに関するプロジェクトを行う株式会社Deportare Partnersの代表を務める。
新豊洲Brilliaランニングスタジアム館長。主な著作に『走る哲学』、『諦める力』など。